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建学の精神



建学の精神

知行合一
日本を代表する漢学者であり、明治法曹界の重鎮としてもその名をはせた三島中洲。明治10年10月10日、彼が創立した「漢学塾二松学舍」が二松学舍の原点です。当時の日本は、明治維新後の混乱期。欧米の文化が次々と入り込んでくる中、新政府発足に向けた動きも着々と進んでいました。明治維新から10年、西洋文化の摂取に汲々としている状況を憂えた中洲が考えたのは、日本人としてのあるべき姿。「東洋の文化を学ぶことこそが、我が国本来の姿を知りうることになる」と主張。東洋学の確立と新時代を担う国家有為の人々の育成を目指しました。そこに掲げたものは、「知行合一」と「温故知新」という精神であり、「己を修め人を治め一世に有用なる人物を養成するに在り(自ら考え行動できる能力を鍛え、社会のために貢献する人物を養成する)」という教育理念でした。中洲は、日本という国が開かれる時代に、自国を正しく理解し、母国語を正しく表現することができる、真の国際人の養成を目指したのです。
高校・大学・大学院を有する教育機関へと発展した二松学舍。本校は、この理念と140年以上に及ぶ伝統を受け継ぎ、日本の未来を担う人材の育成に取り組んでいます。

創立者 三島中洲(1830~1919)
三島中洲(ちゅうしゅう)。名は毅(き)、字は遠叔。中州は号(雅号)。天保元年、備中窪屋郡中島村(後の中洲町、現在の岡山県倉敷市中島)に生まれた。11歳から学問を志し、14歳で儒学者山田方谷の門に入り陽明学を学んだ。さらに斎藤拙堂のもとで見識を深め昌平黌において佐藤一斎に学んだ。30歳の時、備中松山藩に仕え、幕府老中でもあった藩主板倉勝靜とともに激動の幕末を経験した。明治維新後、新政府の命により上京、新治裁判所長、大審院判事(現在の最高裁判所判事)を務めた。明治10年、官を辞し「漢学塾二松学舍」を創設。多くの子弟を育成し、漢学・東洋学の発展に尽力した。のちに東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任した。

校章の由来

「松かさ」の組み合わせは、生徒・教職員・父母が三位一体となり、協(とも)に育っていく(教育は協育なり)という教育方針の象徴です。
また論語の「歳寒くして然る後に松柏の凋(しぼ)むに後るるを知るなり」の章句の、「困難に遭遇した時自己の真価を発揮できる人間」の完成を目指すという意義がこめられています。

校訓

仁愛

思いやりや、情けを持って人を愛すること 

正義

道徳・道理にかなって正しいこと 

弘毅

度量が広く、意志の強いこと 

誠実

偽りがなく、真心がこもっていること 

二松学舎に学んだ文化人

二松学舎に学び、それぞれの道で足跡を遺した先輩たちです。

夏目漱石(1867~1916)
夏目漱石は、近現代文学史にそびえる明治時代の文豪の一人であり、英文学者でもある。
文学を追究し、研究しつづけた漱石にとって青年時代に漢学塾二松学舍で学んだことが、彼の小説における儒教的な倫理観や東洋的美意識を磨いたといわれる。
明治14(1881)年4月、夏目漱石(本名・夏目金之助)は、当時漢字塾だった二松学舍の門を叩いた。その年の「二松学舍入学者名簿」には「塩原金之助」の名が記載されている。漱石が在籍していたのは、1年ほどだったが、多感な青年時代に二松学舍で培った漢詩文の知識と教養は、文豪のその後の人生に大きな影響を与えた。

中江兆民(1847~1901)
明治期の思想家。フランス留学後、その経験を活かし社会の啓蒙と自由民権運動に活躍した。

犬養毅(1855~1932)
国会開設以来、政党政治家として活躍。内閣総理大臣。青年将校らによる5.15事件で死去。

嘉納治五郎(1860~1938)
講道館を創設し、柔道普及に尽力。日本体育協会創設者。初代IOC委員として活躍した。

平塚雷鳥(1886~1971)
女性解放運動家。婦人文芸集団・青踏社創設。市川房枝らとともに婦人参政権運動に尽力した。

嘉悦孝子(1867~1949)
横井小楠の影響を受け、女子教育に道徳と経済を重視。日本女子商業学校を創設した。